このブログでお話ししてきた、
仏教に説かれる「絶対の幸福」とはどんな幸せなのでしょうか?

普通、仏教を聞く前に知っている幸福は、続かない幸福です。

大学合格の喜びや、
仕事で何かを達成した喜び、
結婚の喜び、
美味しいものを食べた喜びなど、
人生には色々な喜びがありますが、
それらは一時的で、すぐに色あせます。

昨日食べた料理が美味しかったと、
今でも喜んでいる人はあまりないと思いますので、
束の間のはかない幸福です。

私たちは、幸福を求めて生きていますが、
そんなはかない幸福では
人間に生まれてよかったとは思えません。
変わらない幸福を求めて生きているのです。
その変わらない幸福を「絶対の幸福」と呼び、
それが仏教に明らかにされているのです。

一時的な 幸せではなく、どんなことがあっても、絶対変わらない幸福です。

これは、よく誤解があるので、一言言っておくと、
「ありのままを生きる」とか、
「今を生きる」とか、
「生かされていることに感謝」、
「すでに救われていることに気づく」
ということではありません。

そんな生き方や、感謝、喜びの心は、続かないと思います。

では絶対の幸福とは、どんな幸せかというと、
転悪成善(てんなくじょうぜん)」といわれます。
「転悪成善」とは、悪が転じて善と成るということで、苦しみがそのまま喜びになる、ということです。

これを「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」ともいいます。煩悩がそのまま菩提になります。

煩悩というのは苦しみのことです。

菩提というのは喜びのことです。
即というのは、そのままですから、苦しみがなくなって、喜びになるのではありません。苦しみがそのまま喜びに転じるのです。
煩悩以外に菩提はありません。煩悩と菩提は一つです。

こういわれてもわからないと思いますので、わかりやすいものでたとえられます。

もし秋であれば、よくたとえられるのが干し柿です。
干し柿というのは、甘い柿を干してもだめで、渋柿で作ります。

渋柿の 渋がそのまま 甘みかな

渋柿は、渋をとって甘くなるのではありません。
渋がそのまま甘みになります。
渋い柿ほど甘くなります。
渋みのほかに甘みはありません。

渋柿が干し柿になるには、時間がかかるのですが、
転悪成善は、同時ですので、その点は違います。

ただ、渋がそのまま甘みになるという「転ずる」とか「即」 ということの一面をよく表しています。

干し柿は、秋の味覚なのですが、春の味覚で転じるのが、知る人ぞ知る、タケノコです。

なんと昆布で煮ると、アクがそのまま甘みになります。

タケノコにもかかわらず、ほくほくしたトウモロコシのような香ばしい味になるので、初めてやったら驚きますよ。

しかも30分か40分でできるので、こちらのほうが、渋柿より速いです。

 このように、色々の苦しみが、そのまま喜びに転じてしまい、仏教に説かれる絶対の幸福は、絶対に崩れることがないのです。

絶対の幸福になったとき、人間に生まれたのはこれ一つのためであったとハッキリしますので、ぜひそこまで仏教をお聞き頂ければと思います。