さて、昨日は新年から現代の日本の仏教が、
99.9%間違っているという
爆弾発言からスタートしました。
一体どうなってしまうのでしょうか?
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お釈迦さまに聞く仏教とその他の宗教の違い
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現代において、日本の仏教が
もはや仏教とは言えなくなってきている、
ということですので、
まず、仏教と、仏教ではない宗教とは、どこが違うのか、
仏教を説かれたお釈迦さまに聞いてみましょう。
お釈迦さまは、仏教は
仏教以外の宗教と、
こういう点で違いますよ
と教えられています。
因果応報なるが故に来世なきに非ず、
無我なるが故に常有に非ず。
これは、仏教以外の宗教を2つに分けて、
仏教は後生を否定する「断見外道」でも、
後生変わらぬ魂が存在するという「常見外道」でもない
ということです。
いつの時代、どこの国でも、人間の存在する所には
必ず宗教がありますが、
その仏教以外の宗教を
仏教では「外道」と言われています。
(仏教は「内道」といいます)
そんな仏教以外の宗教を2つに分けて、
「断見外道」
「常見外道」
と言われます。
どんな基準で分けられたかというと、
「見」というのは、見解や考え方、思想のことです。
そういう、見解・考え方によって分けられているのですが、
「断見」とは、死後は無になるという教えです。
「常見」とは、死後、肉体は滅びても、
固定不変の霊魂が存続するという教えです。
そういう観点からすると、
宗教がどんなに沢山あっても
2つになるんですね。
外道
断見外道………死後は無
常見外道………死後、固定不変の霊魂が存続
▼ではまず「断見外道」には、
どんなものがあるかというと、
死んだら無になるという教えですから、
例えば儒教は死んだ後は考えませんから、
儒教はそれに近いですね。
また、「唯物論」の人は、
心は物質から生まれると考えて、
死んだら無になると信じています。
科学が発達した現代の人々は、
そんな考えを持った人が増えていると思います。
ところがお釈迦さまは、
その死んだら無になるという
考え方が誤りであることを、
因果応報なるが故に来世なきに非ず。
と教えられています。
「因果応報」とは、
「因に応じて果が報う」ということで、
分かりやすくいえば、
まいたタネは必ず生える
ということです。
なぜまいたタネは必ず生えるのかといいますと、
私たちの行いは、消えることのない
「業力(ごうりき)」となって残るのだと
教えられています。
これを「業力不滅」と言います。
では業力はどこに残っているのかというと、
私たちには一人一人
「阿頼耶識(あらやしき)」
という心があって、そこにおさまります。
ところがそれは、
固定不変な魂や霊魂のようなものではありません。
阿頼耶識は「暴流のごとし」といわれて、
激しく変わり続けています。
「暴流」とは滝のことです。
滝は、遠くから見れば、
一枚の布をたらしたように見えますが、
実際にはたくさんの水滴が激しく変化しながら
続いています。
私たちが心と口と身体で何かすると、
すぐにその業力が阿頼耶識におさまって、
滝のように流れて行く、ということです。
こうして阿頼耶識は、私たちが
生まれる前、果てしない遠い過去から、
死んだ後、永遠の未来に向かって流れています。
この阿頼耶識は、
意識でさえもそうですが、
神経や電気信号の組み合わせでは、
生み出せないんですね。
神経細胞の間の電気信号だけで、
意識さえも説明することができないことは、
西洋でもようやくついこの間、1990年代に
「意識のハードプロブレム」と言われて問題提起され、
多くの人に衝撃を与えました。
ちょうど電気信号で動いているパソコンが
ある程度以上複雑になったら意識が生まれた、とか
キーボードをタッチしたら
パソコン君が「嬉しい☆」と
幸せを感じたりした、
ということがありえないのと同じです。
仏教では、肉体ではなく、果てしない遠い過去から、
永遠の未来に向かって、
不滅の阿頼耶識が流れていると説かれています。
肉体は、ちょうど悠久の大河の上に
ぽっと現れて、しばらく流れてぱっと消える
あぶくのようなものです。
あわができようが消えようが、
川の水は増えもしなければ減りもしません。
常に変化しながら流れて行きます。
その阿頼耶識が私たちの本心であって、
その不滅の阿頼耶識に、
不滅の業力がおさまって、
タネまきに応じた運命を生み出しているのが
因果の道理です。
ですから、私たちの種まきは、
寸分の狂いもなく、結果を現すのです。
▼それをふまえた上で、
私たちが生まれる前が過去世、
生まれてから死ぬまでが現在世
死んだ後を未来世と言います。
過去世 生 現在世 死 未来世
─────┼─────┼────→
阿頼耶識
この生まれてから死ぬまでやった行いは、
業力となって阿頼耶識におさまります。
まかぬタネは生えませんが、
まいたタネは必ず生える。
結果を起こさない原因は絶対にないし、
原因があれば、必ず結果が生じます。
もしここで、死んだ後がないとすれば、
因だけあって、結果がないことになります。
因果の道理は、いつでもどこでも変わらない
三世を貫く真理ですから、
「因果応報なるが故に来世なきに非ず」
原因があれば、必ず結果を生じる因果の道理からすれば、
必ず来世があることになります。
そうでないと、
死んだら無になるという考え方をすると、
1人殺したら1回死刑だとすれば、
5人殺しても5回死刑になりませんから、
1人殺したら何人殺しても同じになってしまいます。
そうすると、もう反省したり行いを改める必要はなく、
「やりたいようにやればいいんだ」
という恐ろしいことになってしまうでしょう。
このように、死んだら無になるという
唯物論的な前提から出発した「生きる意味」の結論は、
つきつめて行くと、
「生きている間に最大限の快楽を追究する」
という快楽主義となってしまいます。
お釈迦さまは、仏教はそんな教えではありませんよ
現在世の行いは、不滅の業力となって
阿頼耶識に蓄えられますから、
もし現在世で結果が出なかった場合は、
未来世で結果が現れるんですよ
と教えられています。
因果の道理に狂いはありませんから、
因果応報、因に応じて必ず結果が報いるのです。
▼では、死後、無になるのが間違いとすれば、
仏教では、霊魂はあるのでしょうか?
長くなりますので、また明日。
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■編集後記
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みなさんに少しでも高いクオリティの
記事をお届けしたいと思い、
普段、よく本を読んでいるのですが、
最近、ちらほらと分厚い本が増えてきました。
例えばマズローの心理学とか、
マンキューの経済学とか、
マクニールの歴史といった感じですかね。
(なぜかたまたま「マ」で始まる人ばかり!?)
大学では理系で、量子統計力学とかやっていたので、
文系の学者さんたちの本は最近読み始めたのですが、
さすがに学者の人たちの本は、
大変な調査に基づいていて、
何百ページもあって、刺激的です。
(でもなんでこの人たちの本はこんなに分厚いのか、
もう少し簡潔に書けないのかなと少し思ったりします)
でも、軽く結論だけ書いてある本は、
根拠や出典が不明だったりして
結局、自分で調べることになるので、
最初から重い本に当たっておいたほうが
いいかなと思っています。
結局現在の日本の教育では、西洋の研究成果が中心なので、
科学や心理学、哲学などをよく学んで、
本当の仏教の教えを変えずに、
現代の日本で親しみやすくお話ししたいと思います。
(大学は教養学部だったので、卒業した時に
学士(教養)という、たいそう謎な学位を授かったのですが、
これって何に使うのかよく分からないですね。
教養不足だと思うので、やっぱりちゃんと勉強します……)
仏教には、すべての人が本当の幸せになれる道が
明らかにされていますので、
今年も共に聞法精進させて頂きましょう。