昨日は、現代日本の仏教の本が
99.9%間違っているのは、
実は、現代の日本の仏教学会に秘密がある
という所で終わってしまいましたので、
今回はついにその秘密を公開します。

言ってはいけない日本の仏教学会の秘密

普通、仏教の本を読んだら仏教が分かるはずなのに、
なぜいくら読んでも仏教の教えは
まったく分からないのでしょうか?
私も仏教の本は数え切れないほど沢山読んできましたが、
私の知る限り、かなり有名な学者や僧侶の書いた本でも、
正しく仏教を解説している本もなければ、
ましてや生きる意味について分かりやすく書いてある本は
見つかりませんでした。
正直言って、世の中の99.9%の仏教の本は
救いようもなく間違っているのです。
読めば読むほど、仏教が分からなくなって、
読むほどに読者の理解を混乱させるものばかりです。
そんな感じしませんでした?
一体どうしてそんなことになっているのか、
なぜそんなことが断言できるのかというと、
それには現代日本の仏教学会に秘密があります。
今回は、このブログの読者の方の今後のため、
その仏教学会のベールの内側を
お耳に入れておきましょう。
仏教の目的は、どんな宗派であっても、
生死輪廻からの解脱
です。
生死輪廻」とは、昨日もお話ししました、
私たちは生まれ変わり死に変わり、
車の輪が回るように苦しみ迷いの旅を果てしなく続けて行くことです。
解脱」というのは、その輪廻から離れて
二度と迷わない身になることです。
それを今生に果たせば、
この世から未来永遠の幸福になれます。
この仏教の目的は、
どの宗派にも共通して明らかなことで、
仏教における大前提です。
ところが、なんと日本の仏教学では、
近代に入ってから、
仏教の大前提である輪廻を認めなくなったのです。
少し仏教の勉強をされた方は、
「お釈迦さまは、死後は語られなかった」とか
「お釈迦さまは、輪廻は説かれなかった」
という意見を聞いたことがあるのでは
ないでしょうか?
この仏教の大前提に反する説の出所が、
近代の日本の仏教学者たちなのです。
仏教の経典のありとあらゆるところに
死後や輪廻が説かれているのに、
なぜ曲がりなりにも学者である彼らが、
そんな説をとなえられるのでしょうか?
その大きな理由は、以下の2つです。
1 無記説
2 無我の誤解
まず、釈迦が死後を説かれなかったとする
よくみかける最大の根拠は「無記説」です。
無記」とは、
「お釈迦さまがお答えになられなかった」
ということです。
箭喩経』などのお経に、
ある人が
「如来(にょらい)の死後はどうなるのでしょうか?」
とお聞きしたところ、
お釈迦さまはお答えになられなかった
と説かれています。
ところが「如来(にょらい)」というのは
「仏」と同じ意味で、
生死輪廻から解脱した人のことです。
ですからお釈迦さまを、
釈迦仏とも、
釈迦如来とも言います。
このように、お釈迦さまは如来ですので、この場合、
「あなたは死んだらどうなるのですか?」
とお弟子が聞いていることになり、
素朴な疑問かもしれませんが、失礼ですよね(笑)
空気が読めないというか。
お釈迦さまが答えられなくても
無理はないと思います。
ところが、この「如来」を、
仏教学者たちはなんと、私たち人間(衆生)と解釈して、
「お釈迦さまは人間の死後について答えられなかった」
と主張しているのです。
経典には、このような
死後を説かれなかった所が
何カ所かありますが、
全部「如来」であって
人間(衆生)は一カ所もありません。
それを人間の死後を説かれなかったとするとは、
ありえない解釈です。
何を根拠にそんな解釈をしているかというと、
5世紀頃、セイロン(スリランカ)に渡った
ブッダゴーサというインド人注釈家が、
一カ所だけ如来を人間と解釈している所があり、
それを根拠としています。
ところがその注釈されている部分は、
この仏教の無記とは違う文章であり、違う文脈です。
このように、
「釈迦は人間の死後を語らなかった」
としてしまったら、
仏教の目的である生死輪廻からの解脱は
前提から破壊されてしまいます。
日本の仏教学会は、今、
そんなめちゃくちゃな状態にあるのです。
▼このような仏教の大前提を認めない学者たちに
かれこれ100年近く影響を受けていますので、
最近の仏教の本を読んでも、
もはや仏教に何が教えられているのかも、
仏教に説かれる生きる意味も、
まったく分からなくなっているのです。
何しろ、仏教で輪廻を認めなければ、
生きる意味がなくなりますので。
実際、仏教の本を読むと、
例えば、


生きる意味を考えるよりも、
生きることに感謝して生きて行くほうがずっといいと思う。


とか、


残念ながら生きる意味は存在しません。
ただ生きて行くだけです。


と書いてある仏教の本はすぐ見つかります。
▼こんな人たちのことを
約500年前に活躍された蓮如上人は、


八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とす(御文章)


と言われています。
八万の法蔵」とは、釈迦の説かれた七千余巻の膨大な経典、
後世」とは、死んだ後のことです。
釈迦の説かれた一切経をよく知っているのに、
死んだらどうなるか分からない者は愚か者だ、
ということです。
このように伝統的な仏教では、
死んだ後は当然の大前提なのですが、
現代の日本の仏教学会は、
仏教で愚者とされる、後世を知らざる人たちが、
仏教の大前提を破壊した上で、
生きる意味とか幸福とは関係のない、
細かい議論を続けているのです。
こんな環境では、いくらあなたが尊く
仏教を知りたいと思っても、
仏教も分からなければ、生きる意味も分かりません。
余計分からなくなるので、
こんな人たちは、無視してしまってください。
では一体なぜこんなことになってしまったのか、
ということについては、明日お話しいたします。
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■編集後記
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ちなみに、以前、
宗教は信じるか信じないかであって、
正しいとか正しくないとか言えないのではないか
という質問をくれた人があります。
それではここで問題です。
この意見は、ちょっと聞くと、
何だか正しいように聞こえるのですが、
この意見のどこに問題があるか分かりますでしょうか?
それは、
本当の仏教かどうかを明らかにするときの土俵は、
お釈迦さまの説かれた一切経だということが
分かっていないんですね。
当然ですが、
仏教はお釈迦さまの説かれた教えですので、
お釈迦さまの説かれたお経に反していれば、
仏教ではありません。
例えば、お経の至るところに
死後も輪廻もくり返し説かれているのに、
「釈迦は人間の死後を説かれなかった」
とか
「釈迦は輪廻を認めなかった」
というのは、明らかに
仏教ではないわけです。
他にも、以前、何の根拠もなく
「あなたは間違っていると思う」
という、批判的なメールを頂いたことがあります(笑)
何か根拠があれば
出して頂きたいのですが、
なければ、
「ああそうですか」
としか言いようがありません。
普通はこういう人に返信はあきらめるのですが、
このときは、話が通じるかすかな希望にかけて、
「こういう根拠でこういう結論になるんですけど」
と返信してみたところ、
またもや何の根拠もなく、
「結論:それでもあなたは間違っていると思う」
ということでした。
笑いますよね(笑)
知らない人から
急にそんなメールが送られてきたら、
ど、どうしたらいいんですか!?
根拠なしに「私は思う」というのは、
経典にないばかりか、
「私は好き」とか「嫌い」、
「気に入った」「気に入らない」といった
感情のレベルですから、
「なにおー!」という感情的な返信はできるかもしれませんが、
論理的な返信は、ご覧の通り意味がありません。
なんだか子供っぽいので、
社会的な立場のある人の場合、
そんなメール、
普通恥ずかしくて人に出せないですよね(笑)
しかし、このブログで
現代日本で仏教が分からないしくみを
理解されたあなたは、はるかに簡単に
本当の仏教を知ることができます。
ご自分でもちゃんとした仏教の本を
お探し頂けると思いますし、
このブログでは、
日本の近現代の学者の説ではなく、
お釈迦さまの説かれた仏教にもとづいて
分かりやすくお話ししています。
今日の日本では、ほとんど聞けなくなった
本当の仏教によって、
すべての人が本当の幸せになれる道を知り、
私たちの手で、このすばらしい仏教の教えを
日本の未来へ伝えて行きましょう。