これまでお話ししてきました歴史上の偉人や天才達も含めて、
一体なぜ、どんな人の人生も、
人間に生まれてよかったという喜びがなく、
後悔の人生に終わってしまうのかといいますと、
仏教では、このように教えられています。

真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す(『教行信証』)

如来広大の恩徳」とは生命の歓喜です。
歓喜というのは、喜びのことですが、
生命の歓喜は、欲望を満たす喜びとは違います。
人間に生まれてよかったという喜びです。
その生命の歓喜が起きないのは、
真仮」を知らないからだと言われています。
」とは生きる目的、
」とは生きがいや趣味、生き方など、
生きる手段のことです。
知らざるによりて」とは区別がつかないから、ということです。
これまでのメルマガを読まれ、
「天才は、天才のあくなき向上心ゆえに、
完成がないのではないか」とか、
「かたよった引用ばかりしているのではないか(笑)」とか、
「趣味や生きがいで満足できる人もいるのではないか」
という心があれば、それが、
生きる目的と手段の区別がつかない心です。
そうやって、趣味や生きがいなどの「生きる手段」を
「生きる目的」のように思い、
本当の生きる目的と、生きる手段の区別がつかないから、
人間に生まれてよかったという
生命の歓喜がえられないのだということです。
 ましてやこの本当の仏教を知らず、
みんなが毎日考えていることは、
本質的には生きる目的ではなく、生きる手段ばかりです。
▼そもそも目的と手段の関係は、目的あっての手段です。
手段とは目的を果たすためのものですから、
目的がなければ、手段もありません。
 駅まで行こうと思ったら、車で行こうととか、
自転車で行こう、近ければ歩いて行こうと、
目的地が決まって、手段が決まります。
 アメリカへ行こうと思ったら、
自動車や歩きでは行けませんので、
飛行機で行こうとか、船で行こうとなります。
月へ行こうとなったら、飛行機や船ではいけないので、
ロケットを使うしかありません。
逆に、近所の友達の家に遊びに行くのに、
ロケットは多分無理なので、
自転車や歩きとなります。
このように、目的地に応じて手段が決まります。
▼以前、車で遠くへお出かけしたときのことです。
私は道に迷いますので、カーナビは必須なのですが、
それまで快適だったカーナビが、
ある時、地図を表示するだけで、
どっちへ行くべきかという方角を示さなくなりました。
壊れたのかと思ってまあどうにでもなれと
そのまま乗っていたのですが、
止まったときによく見ると、
単に目的地を設定し忘れていただけでした(笑)
目的地を設定しないと、どんなに高性能のカーナビでも、
行き方は教えられません。
目的地があって、行き方が出てくるのです。
▼ところが私たちの人生にも、色々な生き方があります。
どんな勉強をして、どんな仕事をするのか、
誰と結婚して、どんな家庭を築くのか。
人生には色々の困難がやってきますが、
その困難をどう乗り越えるのか。
それらどう生きるかということは、生き方であり、
生きる手段ですから、目的が分からなければ、
手段も分かりません。
人生の岐路に立たされたとき、どちらを選べばいいのかも、
目的がなければあてずっぽうになってしまいます。
▼個人的な生き方だけでなく、みんなが日々努力している、
政治や経済、科学や医学などは、いかに快適に、
長く生きることができるかという生きる手段です。
●中でも一番分かりやすいのは、医学です。
医学の主な目的は治療です。
治療によって、平均寿命も延び、
長く生きることができるようになりますが、
私たちは治療するために生きているのではありません。
飛行機なら、飛びながら壊れたところを修復して、
航続距離を伸ばすことはできますが、
飛行機は修理するために飛んでいるのではありません。
医学は、治療して命を延ばすことはできても、
延ばした命で何をするかについては答えないのです。
やはり医学は生きる手段です。
●政治も、17世紀の時代から
イギリスの哲学者トマス・ホッブズが、
『リヴァイアサン』で国家は国民を守るためにあると論じているように、
国民を守り、個人やグループの利害を調整するものです。
政治を目的として、そのために国民が迷惑したり、
死んだりしたら大変ですから、
私たちが政治のためにあるのではなく、
政治が私たちのためにあります。
やはり政治は、みんながよりよく生きるための、生きる手段です。
●経済も、どうしたらより効率よく生産し、
平等に分配できるかということですから、
やはり生きるための手段です。
20世紀の経済成長はめざましく、
先進国は、生活する上では十分なくらい豊かになりました。
ところが、さらなる経済成長のために、
テレビの宣伝広告で欲望をかき立て、
それほど必要ないものまで売ろうとするようになっています。
消費者からすれば、本来は必要ないのに無理に買わされても、
もはや嬉しいとは思えません。
私たちが、経済成長の手段なのではなく、
経済が、私たちが生きる手段なのですが、
それでも経済成長の目的が分からないまま、
右肩上がりの経済成長が求められ、
競争が激化すると共に、資源は枯渇し、
環境は破壊されてゆきます。
●科学も、どうすれば便利に快適に生きられるかという
生きる手段です。
20世紀の科学の進歩はめざましく、
物理学は、核分裂による莫大なエネルギーを利用可能にし、
生物学は遺伝情報を解読し、
遺伝子組み替えまでできるようになりました。
ところが制御不能なほど大きなエネルギーを扱う核技術や、
自然界に存在しない生物を生み出すバイオテクノロジーは、
人類の未来に暗い影を宿しています。

手段は完全になったというのに、肝心の目的が
よくわからなくなったというのが、
この時代の特徴と言えるでしょう。(アインシュタイン)

 生きる手段が完全とまでは行かなくても、
急速な進歩を遂げていますので、手段が進歩すればするほど、
目的が分からないことが際立ちます。
手段は、何に使うのかという目的が分からなければ、
意味を失います。
目的は分からなくても、
とにかく少しでも大きな力が手に入るよう進歩し続けよう、
というのでは怖いだけです。
 このように、政治も経済も科学も医学も、
人間の営みすべては生きるための手段ですから、
生きる目的がなければ、成り立ちません。
手段のための手段となって、
同じところをぐるぐる回って
どこにもたどりつかないのですが、
そんなことにお構いなく、人類の進歩は加速してゆきます。
 かつてこの恐ろしさに気づいた夏目漱石は、
晩年に書いた『行人』の登場人物に、
このように語らせます。

「自分のしている事が、自分の目的になっていないほど苦しい事はない」
とにいさんは言います。
「目的でなくっても方便(※手段)になればいいじゃないか」
と私が言います。
「それは結構である。ある目的があればこそ、方便が定められるのだから」
とにいさんが答えます。(夏目漱石)

 仏教では手段や方法のことを「方便」と言いますから、
「にいさん」が、「目的があればこそ、方便が定められる」
と言っているのは、目的があって手段が決まる、
ということです。
自分のしていることが手段になるということは、
生きる目的があるということですから、
そんなすばらしい結構なことはありません。
ところが、もともと目的がない状態では、
まず何かを目的にしないと、あとは自分が何をしても、
手段にもしようがないのです。
漱石はこう続けます。

にいさんの苦しむのは、にいさんが何をどうしても、
それが目的にならないばかりでなく、方便にもならないと思うからです。
ただ不安なのです。従ってじっとしていられないのです。
にいさんは落ち付いて寝ていられないから起きると言います。
起きると、ただ起きていられないから歩くと言います。
歩くとただ歩いていられないからかけると言います。
すでにかけ出した以上、どこまで行っても止まれないと言います。
止まれないばかりならいいが刻一刻と
速力を増してゆかなければならないと言います。
その極端を想像すると恐ろしいと言います。
冷や汗が出るように恐ろしいと言います。
こわくてこわくてたまらないと言います。(夏目漱石)

▼このように、
人生の目的と手段の違いが分からない心を
無明の闇といい、私たちの苦しみ悩みの根本原因です。

真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す(『教行信証』)

生命の歓喜がないのは、人生の目的と手段の違いが分からないからだ
と言われるように、この心一つ断ち切られれば、
人間に生まれてよかったという生命の大歓喜がえられます。
ぜひそこまで仏教をお聞き頂きたいと思います。