これまで見てきたことをふまえて考えると、
「それでも私は自己実現のために生きてるの!」とか
「誰が何と言おうと社会貢献!」
というように、無理を押し通さない限り、
生きる意味は「哲学者」でも分かりません。
哲学者といえば、一生をかけて真理を探究しているはずなのに、
どうして分からないのでしょうか。
今回はその理由の一端を見てみましょう。
▼哲学というのは、西洋哲学です。
西洋哲学の歴史を考えると、
西洋哲学は二千年の歴史があるようでいて、
それほどずっと生きる意味を
考え続けてきたわけではありません。
古代のギリシア・ローマの哲学の後、
西ローマ帝国が衰退してからは、
中世と言われる5世紀から15世紀までの約千年間、
思想上はキリスト教に支配されていました。
そのため、教会が富と権威を獲得し、
目立った知的活動はほとんど行われなくなってしまい、
暗黒時代と言われています。
生きる意味についても、
地球や人間を創造したという神を中心として
「人は、神の目的のために生きている」
で終わっていたため、
ギリシア・ローマ哲学以降の進展はなく、
停滞してしまいました。
▼それでもやがて、15世紀を中心として
ギリシア・ローマの文化を復興しようという
「ルネサンス」が起こります。
16世紀になると、富と権力で腐敗堕落した教会を批判する
宗教改革が始まります。
17世紀に入ってようやく、フランスの哲学者デカルトが
「我思う、故に我あり」と言って、
思想の中心が神から人間の理性に移り始めます。
これが近代哲学の出発点と言われ、
生きる意味も再び問い直され始めます。
その後、
18世紀に産業革命が起こり、
19世紀にダーウィンが進化論を唱え、
キリスト教の権威は、科学の進歩と入れ替わるように、
衰え続けます。
21世紀の今日ともなると『利己的な遺伝子』で
遺伝子中心の進化論を唱えたリチャード・ドーキンスが、
キリスト教を宗教戦争を引き起こす有害なものとして
『神は妄想である』という本を書き、
全米ベストセラーになっています。
ヨーロッパでも、もはや帰属意識や信仰はかなり消え、
「神」の存在を信じる人のほうが少数派となっています。
「神」は、たしかにというよりは「多分」存在するものであり、
キリスト教の柱である個人的な「神」の存在を信じる人は、
ヨーロッパ人の38パーセントに過ぎず、
祈りは有効で「ありうる」が、それ以上ではない。
(フレデリック・ルノワール『人類の宗教の歴史』)
このように、何百年もかけてゆっくりとキリスト教が崩壊し、
西洋哲学は近代になってようやく、
人生の意味を考え始めたのですが、そう簡単には分かりません。
■トマス・ホッブズ
例えば、有名な『リヴァイアサン』で
国家は国民を守るためにあると論じた
17世紀イギリスの唯物論の哲学者ホッブズは、
国民は何のために生きているのかも論じています。
昔の道徳哲学者の書物にかたられているような、
究極目的とか至高善は存在しない(トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』)
このように、生きる意味が分からないまま、大きく依存していた
キリスト教の権威を失い、虚無主義に陥いってしまいます。
●フリードリヒ・ニーチェ
19世紀後半「神は死んだ」と宣言した
ドイツの哲学者、ニーチェは、こう言っています。
人間の存在はぶきみであり、依然として意味がない。
(ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』)
●藤村操
そんな、生きる意味が分からない西洋哲学を、
東京大学の前身、旧制一高で学んでいた藤村操は、
華厳の滝に身を投じ、自殺してしまいます。
自殺の動機は「巌頭の感」として
このように滝の上の木に刻んでありました。
悠々たるかな天壌
遼々たるかな古今
五尺の小躯をもってこの大を測らんとす
ホレーショの哲学ついに何らのオーソリティーをあたいするものぞ
万有の真相は唯一言にしてつくす
曰く「不可解」
我このうらみを懐いて煩悶、ついに死を決するに至る。
「悠々たるかな天壌、遼々たるかな古今」とは、
この大宇宙の大きさと、歴史の長さに思いを馳せると、
何と壮大なことか、ということです。
「五尺の小躯をもってこの大を測らんとす」とは、
その無限の広がりを持つ世界の真理を、
身長150cm程度の小さな私が
かつて追い求めようとしたということです。
藤村操は、西洋哲学を学び、
それによって真理を探求していたのですが、
「ホレーショ」というのは、シェイクスピアに出てくる
ニセ哲学者のことだと言われますので、
自分が学んだ西洋哲学は、
何のオーソリティー(権威)にもあたいしない、
この世の真理を見いだそうにも役に立たない、
ニセ哲学者の哲学のようなものだということです。
「万有の真相はただ一言にしてつくす」
ただ唯一言える、この世の真理は、
「曰く不可解」
不可解の一言だ、ということです。
こうしてなぜこの世に生まれ、生きているのか、
藤村操は西洋哲学を通して死ぬほど考えても分からず、
煩悶のすえ、ついには自ら命を絶ってしまったのです。
●ジャン=ポール・サルトル
その後の哲学者も同じです。
ノーベル賞を辞退したことで知られる
20世紀のフランスの哲学者サルトルは、
その代表作『存在と無』の中で、やはり、
人間は一つの無益な受難である。(サルトル『存在と無』)
と結論づけています。
●フィリッパ・フット
現代においても、アメリカのクリーブランド大統領の孫で、
カリフォルニア大学で長年哲学の教授をしていた倫理哲学者、
フィリッパ・フットは、
「今日まで、命の価値を説明できた哲学者を知らない」と、
『道徳的相対主義』に書いています。
きちんと論理的にものを考える哲学者には、
今もって、人生に価値があるとは言えないのです。
●トマス・ネーゲル
ハーバード大学で博士号を取得し、現在活躍中の哲学者では
かなり有名なトマス・ネーゲルは
「人生の意味」と題して様々な考察を巡らした最後に、
人生に意味がないのは当然として、
次のようなさらなる可能性も考えています。
つまり、人生は単に無意味であるだけではなく、不条理であるかもしれないのです。
(トマス・ネーゲル『哲学ってどんなこと?』)
このように、人生について考え、
生涯をかけて真理を探究している哲学者たちでさえも、
人生に意味は見いだせないのです。
▼このような一流の哲学者でも、
生きる意味となると分からないとすれば、
生きる意味は、この先生きていけば、
人生経験を積んでいくうちにいつか分かってくる、
ということは期待できません。
どれだけ頑張っても、これらの人たちの言うとおり、
無益に苦しむだけの、不条理な人生になってしまいます。
ところが、そんな誰も分からない本当の人生の目的を、
仏教では2600年前から教え続けられていますので
ぜひお聞き下さい。