ペンネームの目的
長南瑞生は、なぜペンネーム中村僚なのか?
長南瑞生のペンネーム、中村僚は、もともと高校時代に、フランスの天才数学者集団「ブルバキ」を知り、彼らは、ペンネーム「ニコラ・ブルバキ」名義でたくさんのすごい論文を書いていたエピソードから思いついたものです。
仏教通信コースのプロジェクトを始めたとき、大学で知り合った、ただ人と思えないすぐれた人物にシステム面を担当してもらい、チームで実現しました。
このウェブ通信コースプロジェクトはインターネットを活用して、仏教に説かれた本当の生きる意味を、いつでもどこでも、どんなライフスタイルでも体系的に学べる仏教史上では初めての、新たなステップなのですが、私はどちらかと言えば、目立たず歴史の水面下で、世界の構造から変えたいほうですし、しかもやがては死にますので、私がいなくなった後も、「中村僚」は他の人にも引き継いでいけるように、ブルバキのように、チーム名にしたらと思ったのです。
長南瑞生の本名を使う目的
ところがしばらくすると、出版の依頼があり、確かにそのほうが多くの人に本当の生きる意味を伝えられると判断し、自分で表の世界に出ざるをえなくなりました。
ただ、初出版にあたって考えてみると、ペンネームの使用は何も珍しいことではなく、夏目金之助さんが、漱石と名乗っていたり、森林太郎さんは、鴎外だったり、江戸川乱歩さんといい、藤子不二雄さんといい、三遊亭さんや林家さん、久石譲さんや秋元さんの「千代の富士」など、ほとんどの人はペンネーム?を使っていることにふと気づきました。
たぶん使用率は50%以上で、ましてやインターネット上は90%以上かもしれません。
このようにペンネームの使用が多いということは、大衆は常に間違うことから、実は、本名のほうがいいのではないか?
と直感したのです。
特に初出版で、最初から無名の新人とは思えないほどの部数が印刷され、多くの人にお届けできることとなりました。
今後、ある一定以上の多くの人たちに言論で影響を与えることになるので、そういう立場の者は、責任の所在を明確にせねばならないと思います。
しかも、上記の夏目漱石や森鴎外といった人たちであれば、書いていることはフィクションですから、内容に責任も何にもないですが、私の場合はノン・フィクションです。
ノン・フィクションということは自分が本当だと思うことを書くのですから、その場合は、責任の所在を明らかにするため、本名で活動すべきだと、私は考えるのです。
こうして、『生きる意味109』を出版したことを縁に、功罪はあるものの、責任の所在を明確にするために、本名で活動することにしたのでした。
とはいえ、急には切り替えられないので、中村僚のペンネームも使いつつ、だんだん本名を主体としてゆきたいと思っています。
急に中村僚が現れて「誰これ?」と混乱を生じさせてしまったら申し訳ございませんが、何とぞよろしくお願いいたします。
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