近代に入って、それまでと大きく変わったことに、
科学の進歩があると私は考えています。
それまでわからなかった自然現象のしくみが解明され、
人間が利用できるようになってきました。
科学の進歩で色々なことがわかってきたのですが、
科学ではわからないことがあります。
それが「目的」です。
古代では世界に起きる
さまざまな現象の理由を
目的から説明することがよくありました。
神話的な説明です。
例えば
「なぜ雷がなるのか」
という質問があったとします。
その理由は、
が怒っているんだよ」
といったりします。
もっと複雑な説明もあります。
「なぜ星が夜空を回っているの?」
というと、
「アルテミスが間違って恋人のオリオンを殺してしまい、
 父親のゼウスに天空に上げて欲しいと頼んだんだよ。
 それからオリオン座になって永遠に夜空を回っているんだよ」
という調子です。
その後、ギリシア哲学のアリストテレスが、
大宇宙はすべて一つの目的に向かっているとして、
すべての現象が起きる理由は、
その目的に向かうためと説明しました。
これがすごい権威を持ったのですが、
中世ヨーロッパになると、
キリスト教が力を持ったので、
その目的は、の意思となりました。
ところが、16世紀になると、考え方が変わってきます。
例えば、
「知は力なり」と言ったフランシス・ベーコンが、
「自然現象を目的から説明したらダメじゃないか」
と言い出します。
この流れに乗って、17世紀のデカルトも
自然現象を目的から説明するのを否定して、
原因だけを考えることを提唱します。
前回お話ししたように、デカルトが
物質と精神を分けて、
科学では物質だけ考えるようにしました。
それと合わせると、
科学は「物質や運動」の「原因」だけを考えるようになった
ということです。
すると、科学が飛躍的な進歩を遂げたのです。
こうして科学は目的を考えずに
原因だけを考えるようにしたところから、
急激な進歩ができたわけですが、
その反面、当然ながら目的はわかりません。
これは、20世紀に入ると多くの人が
何かがおかしい
と気づき始めました。
20世紀最大の天才科学者といわれるアインシュタインは、
手段は完全になったというのに、
 肝心の目的がよくわからなくなったというのが、
 この時代の特徴と言えるでしょう

と言っています。
しかし、いまだに目的がわからないままです。
この強力な力を持った科学をたとえるなら、
目の見えない巨人のようなものです。
目的は分からないのですが、
力だけは強いです。
その肩に乗っている小さな人間が、
巨人を動かしているのですが、
巨人をどこへ向かって動かせばいいのでしょうか?
今では力が強すぎて、環境破壊とか
遺伝子操作とか、クローンとか、色々やりますから、
地球や人類も破壊しかねません。
そんな超強力な手段である科学にも、
どこへ向かって行くのかという方角や目的は
わからないので、
別のところで考えなければなりません。
ところが、科学と同様に、
すべての結果には原因がある
という因果律に立脚して、しかも
人はどこへ向かうべきか」という目的を
追及し、明らかにしたのが仏教です。
仏教は、自然現象を解明しようとしたのではないので、
それはあまりわかりません。
しかし、人間が生きる目的はわかります。
前回の「物質と精神」
今回の「原因と目的」の内容をまとめると、
ノーベル賞を受賞した哲学者の
ラッセルがこのようなことを言っています。
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仏教は、思索と科学の組み合わさった哲学である。
それは、科学的な方法を提唱し、
合理的とえる最終的なものを追求する。
その中で、これらの興味深い問いの答えが見つかるだろう。
精神と物質とは何か。どちらがより重要か。
宇宙は目的へ向かっているのか。
人間の位置づけは何か。
尊厳な生はあるのか。
それは、最新の科学でも、計測機器の限界から取り扱えない領域へ
連れて行ってくれる。
それは心の領域である。(バートランド・ラッセル)
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そんなに仏教を学んだわけではないでしょうに、
さすがにラッセルは鋭いですね。
確かに仏教には、
人間が生まれてきた目的、
生きている目的、
本当の生きる意味が教えられているのです。
ぜひ共に仏教を学びましょう!
それでは今日はこのへんで。