それでも生きたあかしが残ればいいのでは?
 もし満足できなくても、生きたあかしを「残す」ことが、
生きる意味だとすれば、
生きたあかしが残らなければ、生きる意味はありません。
あなたの作品や思い出は、しばらくは残ると思いますが、
それはやがて必ず消えてしまいます。
結局は、何も残らないのです。
心理学者の諸富祥彦氏も、
分かりやすく解説してくれています。

たしかにあなたが死んでも、あなたの思い出は
しばらく他の人の心に残るでしょう。
歴史に名を刻むような人物であればなおさらです。
しかしその幸運も永遠には続きません。何と言っても、
『人類はいつか消えてなくなる』のですから。
(『人生に意味はあるか』)

 地球の寿命さえもあと50億年と言われていますから、
たかだかそれまでのことです。
地球資源を使えば使うほど、
環境を破壊すればするほど、
人類ははやく終わってしまうでしょう。
そうなれば私たちの生きたあかしは、
すべて消えてしまいます。
せっかく人生かけて何かを残したのに、
それはしばらくのことで、
やがてなくなってしまうのですから、
最初からあなたが存在しなかったとしても、
何も変わりません。
▼人生は夢・幻のようなもの
 仏教ではさらに、
宇宙や人類が消えてしまうどころか、
それらを含めた人生自体が
夢のようなものだと教えられています。

人間はただ電光朝露の夢幻の間の楽ぞかし
(蓮如上人『御文章』)

人生の楽しみは稲妻のようにはやく、
朝露のようにはかない、
夢や幻のようなものだということです。
夢の中にも、夢の中の宇宙があり、
夢の中の人類も歴史もあるでしょうが、
夢が覚めればすべて消えてしまいます。
どんなに夢の中に、そこにいたあかしを残しても、
夢覚めたとき、一体何の意味があるでしょうか?
仏教では、あなたの未来に待ち受ける
夢覚めるときの光景、
人生の終わりをこう教えられています。

まことに死せんときは、かねてたのみおきつる
妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、
唯一人こそ行きなんずれ。

まことに死せんときは」とは、
あなたがいよいよ死んでゆくときは、ということです。
生ある者は必ず死に帰す」と言われるように、
どんな人も死をまぬがれることはできません。
死はあなたの百パーセント確実な未来です。
かねて」とは、今まで。
たのみおきつる妻子も財宝も」とは、
これまでたよりにし、心の支えにしてきたすべてのものです。
それが何であるかは人それぞれですが、
誰しもこれが私の生きたあかしだとか、
生きる意味だと思っているものです。
そんな今まで信じて生きてきたものすぺてを、
ここで「かねてたのみおきつる妻子も財宝も」
と言われているのです。
わが身には一つも相添うことあるべからず」とは、
元気なときは、これぞ自分の生きる意味と思っているでしょうが、
死ぬ時は、どんな愛する家族もついては来てくれません。
 どれだけお金があっても、死んでいく時は一円たりとも
持ってはゆけません。手に入れた物も、成し遂げたことも、
地位も名誉も何一つ、明かりになるものはありません。
全部この世においてかねばなりません。
▼豊臣秀吉が、辞世に

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 
       難波のことも 夢のまた夢

と詠んでいる通りです。
我が身」というのは、秀吉自身です。
当時の社会の最下層からスタートして日本中を駆けめぐり、
才能と努力でついには天下統一を果たした英雄です。
そんな彼の人生も、
露と落ち露と消えにし我が身かな
夏の朝、草の上できらきら光る朝露が、
日が昇るまでにはつるりと落ちて消えてしまう、
そんなはかないものであったと、
その臨終の心境を告白しています。
難波のことも夢のまた夢」とは、
難波」というのは、大阪のことですから、
天下をとり、大阪を中心に極めた栄耀栄華も、
死んで行くときには、夢の中で夢を見ているような、
はかないものでしかなかったと、
寂しくこの世を去っています。
 死ぬのはまだ先だと、
目の前の欲望にかられているときには
現実のように思えても、最後本当に死ぬときには、
夢のまた夢と消えてしまいます。
今まで必死でなしとげたことも、
かき集めてきたものも、すべてを置いて、
たった一人で真っ暗な後生へと
旅だってゆかねばなりません。
結局、自分の欲望に酔ったように引きずり回されて、
夢のように死んで行く、酔生夢死で終わります。
そんな夢のように消えてしまうものが、
本当の生きる意味と言えるでしょうか。
 このような夢のように消えてしまう人生で、
一体何をすれば、本当に生きた甲斐があるのでしょうか。