それは男女の間に限りません。
親子間でも同じです。
母親の子供を思う心は、
この世でもっとも誠実で崇高だと言われます。
そんな子供も、やがて成長し、
20年もすれば必ず巣立つときがやってきます。
今まで命のように育ててきた子供が自分の元を離れると、
心にぽっかり大きな穴が開いてしまいます。
空の巣症候群とまでは行かなくとも、
すっかりがっかりしてしまうのです。
フロイトと共に、初期の精神分析に貢献した
心理学者のシュテーケルは、
このように言います。

子どもを挫折した人生の目的に置き換えることはできない。
われわれの人生の空虚を満たすための材料ではない。
(ヴィルヘルム・シュテーケル)

たとえどんなに一緒にいることができたとしても、
最後は自分か子供のどちらかが必ず死んで、
別れてゆかねばなりません。
たいていは自分のほうが先ですが、
子供に先立たれる親もたくさんあります。
愛する子供に死なれた悲しみはどれほど大きなものでしょうか。
▼江戸時代・化政文化を代表する俳人・小林一茶は、
晩年になって、ようやく待ち焦がれた子供が生まれました。
「さと」と名づけたその長女は、生まれて1年も経つと、
他の子供が持っている風車を欲しがったり、
夜空に浮かぶ満月を、「あれとって」とせがんだり、
たき火を見てきゃらきゃらと笑います。
 そのかわいいかわいい一人娘の、
あどけないしぐさをいとおしむ情景が、
一茶の代表作「おらが春」に描かれます。
ところがそんな時、突如、さとは当時の難病、
天然痘にかかってしまいます。
びっくりした一茶、必死に看病しますが、
さとはどんどん衰弱し、
あっという間にこの世を去ってしまいます。
茫然自失、深い悲しみが胸にこみ上げ、
一茶はこう詠んでいます。

露の世は 露の世ながら さりながら

露の世は、露のようなはかないものと
かねて聞いてはいたけれど………
かわいい娘を失った悲しみは胸をうちふるわせ、
あふれる涙に、もはや言葉が継げません。
一茶の決してあきらめることのできない
むせび泣きが聞こえてくるようです。
▼このように、会者定離ということからすれば、
相手が子供であれ男女間であれ、
とても愛が生きる目的とは言ってはいられないのです。
では、本当の生きる目的は
一体、何なのでしょうか?